2009年06月15日

キビヤック、キビャック(kiviakやgiviak)

キビヤック、キビャック(kiviakやgiviakと音写されることが多い)は、グリーンランド、アラスカ、カナダなどのイヌイット(エスキモー)が作る漬物の一種で伝統的な発酵食品。海鳥(ウミスズメ類)をアザラシの中に詰めこみ、地中に長期間埋めて作る。

キビヤックの材料となるのは、現地でアパリアス(グリーンランド語:Appaliarsuk)と呼ばれる海鳥[1]の一種とアザラシである。北極圏の短い夏の間、飛来したアパリアスの群れを捕虫網のような道具で捕獲する。
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捕獲したアパリアスを直射日光の当たらない涼しい場所に1日ほど放置して冷やす(内臓が早く傷まないようにするため)。
アザラシの腹を裂き、皮下脂肪のみ残して、内臓と肉をすべて取り出す(但し、皮下脂肪は残さないという説もある[2])。
袋状の空になったアザラシの内部にアパリアスを(羽などをむしらず)そのままの形で数十羽程詰め込み(資料によれば700羽とする記述もある)、アザラシの腹を縫い合わせる。縫合口にハエが卵を産み付けるのを防ぐために、日干ししたアザラシの脂(プヤ)を塗ったりもする。
これを地面に掘った穴に埋め、空気抜きとキツネなどに食べられないようにするため、上に石を置いて2ヶ月から数年間放置・熟成する。
アザラシを掘り出し、中からアパリアスを取り出して賞味する。

賞味法 [編集]
食べるときはアパリアスの尾羽を除去した後、総排出口に口をつけて発酵して液状になった内臓をすする。肉も、皮を引き裂きながらそのまま食べる。歯で頭蓋骨を割り中身の脳味噌も食する。

また、液状になった内臓を調味料として焼いた肉などにつけて食べることもある。発酵により生成されたビタミンを豊富に含むため、加熱調理で酸化・分解してしまった生肉中のビタミンを補う機能があるとされ、かつては極北地域において貴重なビタミン源の一つであった。

誕生日、クリスマス、結婚式や成人式などの祝宴の席でよく供される。

強い臭気 [編集]
美味だが非常に強い臭気があるとされ、シュールストレミング、くさや、ホンオフェと並び、世界の異臭料理として有名である。

2009年05月30日

専行院

専行院(せんこういん、? - 明治5年6月11日(1872年7月16日))は、江戸時代後期、江戸幕府11代将軍徳川家斉の側室。俗名は美代(伊根とも)。

養父が中野清茂、実父は内藤造酒允就相とあるが、誠の実父は下総国中山の智泉院(日蓮宗派)の住職で破戒僧の日啓である。

美代は、駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり、文化10年(1813年)3月27日に溶姫、文化12年(1815年)10月16日に仲姫、文化14年(1817年)9月18日に末姫を産んだ。仲姫は幼くして死亡したが、溶姫は加賀藩主前田斉泰、末姫は安芸国広島藩主浅野斉粛へ嫁入りした。
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家斉の寵愛が深く1836年(天保7年)、家斉にねだって谷中感応寺を建て替えさせて将軍家御祈祷所にした上、実父・日啓を住職にさせることに成功している。また、前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は家斉に、慶寧をいずれ将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている。

しかし家斉が死去し慶寧の伯父(溶姫の兄)である12代将軍・徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦は天保の改革を開始し、手始めに大御所時代に頽廃した綱紀粛正に乗り出し、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行い、美代の父・日啓は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)。大奥では人心の一掃が行われ、美代も江戸城から追放され落飾し専行院と号して本郷の加賀前田家屋敷、霞ヶ関の広島浅野家屋敷などを転々とした。

明治5年死去。墓は駒込の長元寺だが、野田山(加賀前田家の菩提寺)だという異説もある。


2009年04月26日

ソドムとゴモラ

ソドム(英語 Sodom)とゴモラ(Gomorrah)は、旧約聖書の『創世記』に登場する、天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされる都市(商業都市)。後代の預言者たちがソドムとゴモラに言及している部分では、例外なくヤハウェの裁きによる滅びの象徴として用いられている。

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ソドムの罪については、『エゼキエル書』16章49-50節において、多くの点が指摘されている。古来、『創世記』19章前半、特に19章8節のロトの提案内容から推察して、甚だしい性の乱れが最大の原因であったとする見解が一般的である。ただし同性愛が罪でないと主張するリベラル派教会では「ソドムの罪」を男色だとする説は今日では全くの謬見であることが証明されたとされる[1][2]。

ソドムとゴモラの廃墟は死海南部の湖底に沈んだと伝えられる。これは、「シディムの谷」と「アスファルト」に関する『創世記』の描写と、死海南部の状況が似通っていることなどから、一般にもそう信じられているが、その一方で、死海南岸付近に点在する遺跡と結びつけようとする研究者も存在する。

ソドムを死海南東部に位置する前期青銅器時代(紀元前3150年-2200年)の都市遺跡Bab edh-Dhra、ゴモラをこの遺跡に隣接する同時代の都市遺跡Numeiraと考える研究者もいる。いずれも現代のヨルダン・ハシミテ王国、カラク県に位置する。なおこの都市遺跡の近隣には、天から降る硫黄と火からロトが逃げ込んだとされるロトの洞窟の遺跡(Deir Ain Abata)がある。ビザンティン(東ローマ)時代に、ロトの洞窟の伝説地の上に教会が建てられたが、この教会の遺跡が現在残されている。教会の左手には、ロトが逃げ込んだとされる洞窟が実在する。

創世記によると、この洞窟でロトと二人の娘の間に生まれた子どもが、モアブとアンモンのふたつの民族の祖先となったとされるが、ロトの洞窟を含む前述の遺跡すべてが、かつてモアブと呼ばれた地、現代のカラク県(ヨルダン王国)にあることは、ソドムとゴモラ、ロト、そしてモアブの伝承を考える上で興味深い。上記の考古遺跡から出土した考古資料は、現在ヨルダンのカラク考古博物館(カラク城内)やアンマン国立考古博物館で見ることができる。

イスラエル南部の干拓地にセドムと表記される都市がある。
ヤハウェの使い(天使)二個がソドムにあるロトの家へ訪れ、ロトは使いたちをもてなした。やがてソドムの男たちがロトの家を囲み、使いたちとセックスをするから使いたちを出すよう騒いだ。二個の使いは、ヤハウェの使いとして町を滅ぼしに来たことをロトに明かし、狼狽するロトに妻と娘とともに逃げるよう促し、町外れへ連れ出した。ロトがツォアルという町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向き、塩の柱となった。ヤハウェはロトを救い出した。

2009年04月10日

カンテレ

カンテレ (kantele) はフィンランドの民族楽器の一つで、ツィター属に属する撥弦楽器の一種である。フィンランドの国民的叙事詩であるカレワラの中で、老賢者ワイナミョイネンがカンテレを開発したことになっているため、フィンランドでは民族意識の象徴として扱われることも多い。5弦から39弦まで、用途に応じ、異なる数の弦が張られた楽器を使い分ける。
神話的 [編集]
ワイナミョイネンがカンテレを創造したのは、北方の地ポホヨラに遠征したときで、その模様はカレワラ第40章に語られている。  ポホヨラに向けてワイナミョイネンが船を進めていると、舟が大カマスの背に乗り上げ、動かなくなってしまう。ワイナミョイネンは直ちにこの大カマスを一刀両断にすると、近くの漁村に立ち寄り、これを料理するように村人に申し付ける。料理をする村人たちが捨てる骨を見ていたワイナミョイネンは、その骨を使って楽器を作ることを思い立つ。

大カマスの顎骨を枠にして、ヒイシ(Hiisi)の去勢馬の毛を張られ、最初のカンテレが完成した。しかしこのカンテレは、第43章で語られる「サンポ戦争」の際に湖に沈められ、永遠に失われてしまう。 サンポとは、穀物と塩と銭を絶えず引き出す魔法の碾き臼のことで、サンポの所有者であったポホヨラの女主人から、ワイナミョイネンたちカレワラ軍がこれ奪取した事でサンポ戦争は始まる。しかしその最中、カンテレは失われてしまうのである。ワイナミョイネンは鍛冶イルマリネンに大熊手を作らせ、それで湖中を探すものの、ついに見つかる事はなかった。

ワイナミョイネンは悲嘆にくれ、国中を歩き回る。ある森の辺りにたどり着いたとき、彼はそこで一本の樺の木が泣いているところに出会った。樺は、四季を通してきこりたちに枝を切られ、皮をはがれる自分の運命を嘆いていた。ワイナミョイネンはこれを哀れに思い、楽器にして慰めることを思い立つ。かくして、新しいカンテレの枠は出来上がった。次にワイナミョイネンは、弦を結わえ付けるネジ(ペグ)を探し回る。ある庭の木の枝で、鳴くたびに口から金銀を流す郭公に出会った。ワイナミョイネンは、この金銀を拾い上げ、ネジの材料にした。

次に絃を求め、荒野をさ迷ったワイナミョイネンは、そこで恋人を待って歌う一人の乙女に出会う。ワイナミョイネンは乙女に髪を5本所望し、無事に手に入れることが出来た。

新しいカンテレが完成した。ワイナミョイネンがこれを抱えて岩の上にすわり、爪弾くと、妙なる調べが近隣に響き渡った。これを耳にした人も動物も植物も、天地すらも、ワイナミョイネンのカンテレに聞き惚れ、喜びに満たされていった。

以上が、カレワラで語られるカンテレの成立過程である。

歴史的 [編集]
三角形の板に5本の弦を張った楽器であるカンテレは、学問上はツィターの仲間に分類されているが、ツィターの成立以前、2000年前にはすでに最古のカンテレが存在したという説もあれば、その歴史は1000年もないと主張する説もあり、今のところ定説はない。

現存する5弦カンテレのうち、製造年が判別できる最古のものは、1698年に作られたものである(フィンランド国立博物館(National Museum of Finland)収蔵:Kurkkijoki村で採集)。カンテレは、曲だけを演奏するために用いられることもあれば、歌やダンスの伴奏として用いられることもあった。歌は、叙事詩や叙情詩、伝説などを歌う歌から、遊び歌などが主なレパートリーで、カレワラはこうした古い歌を編纂して作られたものである。

長く民俗音楽を演奏するための楽器として主役の座にあったカンテレは、徐々にフィドルにその地位を奪われることになる。カレリア地方、ラドガ湖周辺から中央、および北オストロボスニア地方にかけては、1830年代頃までカンテレを作っての演奏は珍しいものではなかったが、その他の地域では、17世紀にはすでに一般的なものではなくなっていた。

しかし、中央オストロボスニア地方出身のカンテレ奏者クレータ・ハーパサロ(Kreeta Haapasalo)らが、ヘルシンキなどでコンサートを行うことで、カンテレは再び多くの人々の目に止まった。アレクシス・キヴィ(Aleksis Kivi)などは、自筆の詩Anjanpellon markkivatの中で、彼女について言及してもいる。クレータは、「カンテレ・クレータ」の愛称で親しまれ、1893年に没すると、切手の図柄としてその姿を遺された。

クレータの後に幾人もの演奏家達が続いたこともあって、各地のマイナーなスタイルが再発見された。また、楽器自体の改良も試みられ、1920年、ポール・サルミネンによって、音程を変化させる切替機構を持ったコンサートカンテレが開発されると、カンテレは、大きな芸術的可能性を秘めた楽器として遇されるようになった。この後も楽器の改良は積極的かつ盛んに行われ、アンプにつなぐことで、音質を変化させることが出来る電気カンテレ(エレキカンテレ)なども開発された。

折からの民俗音楽復興運動も手伝って、5弦カンテレはリコーダーのように、情操教育に適したものとして、各地の小学校、幼稚園、保育園などで音楽教育に組み込まれることになった。音楽学校やフィンランド唯一の音楽大学であるシベリウス音楽院では、演奏法の研究も行われ、伝統的な演奏法を調査、研究、再興させることに力が注がれる一方、新しい演奏法の開発も行われている。同学には伝統音楽、西洋クラシック音楽、電子音楽の領域での博士課程もある。

構造 [編集]
最古のカンテレは一本の木を刳り貫き、表面に5本の弦を張った楽器であった。現在の演奏会用カンテレは39絃にも及び、その本体は何枚もの板材から作られている。カンテレの材料となるのは、ポプラや松、ハンノキ、唐檜などで、神話のように白樺で作るものはまれである。弦を止めるペグは樺材で作られていたが、現在の演奏会用カンテレでは、金属製のものが使われている。

伝統的な手法において、5弦カンテレは五音音階に調律されるが、演奏会用のものは全音階に調律され、半音上げたり変ロ音を出したりするための切り替え機構をもっている。 

奏法 [編集]
カンテレは両膝または小卓に置いて演奏する。指先でつま弾く、絃を押さえず(時としてマッチ棒で)かき鳴らす、という二つの主たる演奏法がある。

弦の張り方にもスタイルがあり、最も特徴的なのが、「ハーパヴェシ・スタイル」である。現在多くのコンサートカンテレはも演奏者側に低い音が来るように調弦されているが、北オストロボスニア地方のペルホ川流域のハーパヴェシでは、反対に高い音(短い弦)が演奏者側になるようにして弾く。この奏法は、歌手パシ・ヤースケライネンPasi Jääskeläinenによって、20世紀初頭頃から広められた。

ビッグカンテレの奏法 [編集]
ビッグカンテレとは このページの写真のコンサート・カンテレなど、36弦、38弦、39弦カンテレを指す。 5弦や10弦カンテレとの奏法の違いは、こうしたビッグカンテレは、開放弦楽器のために残響が長く、次に弾く音に残響が混ざり濁った音となってしまうため、消音=ダンピングのテクニックが必要になる。楽器にとりつけられたダンピングボードを使うか、クラシックスタイルの(低音部を手前に置く奏法)の場合は、右手の肘の部分で弦に触れてベースの音を消音する、または、1音弾いたら隣の指でその弦に触れて消音しながら、次の音をつまびく、というテクニックなどがある。 日本を代表する3名のカンテレ演奏家、はざた雅子、佐藤美津子,あらひろこは、いずれもこのダンピングのテクニックに長けており、クリヤーで美しい音色を奏でている。

弦を弾くだけならば、初心者でもすぐに美しい音が出るのがこの楽器であるが、いかに消音=ダンピングをタイミングよく正確にでき、なおかつ音楽の流れを創り上げ、表情豊かに弾くかが演奏家として力量であろう。 弾き方も、5弦カンテレのように、指を上にひきあげるような奏法ではなく、指の腹を弦に斜めに当てて、次の弦に向かって押し出すようにつまびく。この際、爪がひっかからないように、指と弦を平行にして弾く演奏家が多い。

また、ビッグ・カンテレは,ピアノでいう白鍵の音階で調弦されているため、現代曲やポピュラー曲などを弾く時は、その調に合わせてチューニングするか、半音レバーを操作する。一般的なコティカンテレはG音に半音レバーを取り付けることが多く、これはラから始まる短音階の曲を弾くためである。コイステネン社やロヴィッカのコンサートカンテレには、全音に対応する半音レバーがつけられており、一度のレバー操作で、例えばC4-C1まで、というように、全てのドの弦を即座にシャープやフラットにすることができ、多様な曲の演奏に対応できる。

マルトース テノール ショート セント エピロ フリンジ デネボラ ジャケツ モモアク ラウンド ドナー シニフィ きたひろ パンフォス デポ最新 ライス バラスト ワンレン ジュニ キメラ マスド ギブス スカブラ アーティ マーメイド ミサリー リンガイ マザー メーソン ウショウ ダイス ピンナップ ノック ランボ ノッポ プロフ あめだ スクラム インタ ヒップ スタイル シャベル ミール スポンジ ハティ アイホール リナム ハッスル サタン アフロ


2009年03月26日

野球(メジャーリーグ)を題材にした

アメリカでは、野球(メジャーリーグ)を題材にした「ベースボールカード」以外にアメリカンフットボール(NFL)、バスケットボール(NBA)、アイスホッケー(NHL)といったいわゆる4大スポーツなどスポーツを題材としてカードがポピュラーであるが、映画、テレビ番組、女性モデルを題材とした物も根強い人気を持ち新作が発売されている。また公認サンタクロースのサインや服の一部を貼り付けたカードなどが入ったサンタクロースセットが発売された。

日本におけるスポーツ分野のトレーディングカードとしては、プロ野球、サッカー、相撲、競馬、プロレス、女子プロレスなどが良く知られている。 スポーツ以外のトレーディングカードとしては、アニメや漫画、映画、テレビ番組等の物がある。また、日本では一人の女性モデルを取り上げたアイドルカードと呼ばれるカードが多く発売されていることも特徴といえる。
スキミン ソーター ブロッキ レニア ツーリング ナスカ イジェクト ビッグ カット 管弦楽団 ユース イブ日本 バンコ ゾーニング フルスピ モンテ サクラ キット モメンタム スラング 波間 ヒロポン ハシソウ プレース ジャル めんだ トラベラ パロディ タイプ オーバー ウィグ パキラ そらち ダラー シロッコ バーベナ ダーク フリー スーツ マウス ネクタ ネチズ ヨット バリ デリン ブルーデー フェルト イーブン ブライ にしままい

スポーツを扱ったものを含むこれらが、カードによるゲームを行うことを主目的(もしくは目的の大きな一部)に作られたトレーディングカードゲームとして発売されている事もある。

カードの仕様 [編集]
トレーディングカードには主に、厚紙の表面に写真やイラスト、キャラクターなどの画像を、裏面に表面の画像に関する情報を印刷してある。ただし後述するトレーディングカードゲームに用いられるものは、ゲームの性質上、表面の背景、体裁はすべて共通するデザインが記され、写真やデータの双方が裏面にまとめて印刷される場合が多い。

また、ナインポケット(カードを収納するために縦3枚×横3枚分のポケットが付けられている透明のビニールシート)に収納する場合を想定し、9枚揃えると大きなイラストを見る事ができるよう裏表を印刷する場合もある。

大きさは現在の日本においては、一般にTopps社が最初に採用し、アメリカでのトレーディングカードの標準サイズとされる2.5インチX3.5インチで制作されることが多いが、バンダイのカードダスシリーズやカルビーの添付カードで採用されているサイズ、テレホンカードサイズなどのカードも少なくなく存在する。

一般的なカードに対する特別な存在のカードとして、意図的・計画的に出現率を減らしたカードがあり、「インサートカード」などと呼ばれる。主には金銀の箔押しやホログラムなど、セットされる中で一般のカードとは別の加工が施されたものである。また、和紙、木やプラスチックなどの素材を使うことで差別化を計ったものもある。

さらに高い付加価値を持つものとして、カードのモチーフとされた人物の直筆サイン入りのものやキスマーク付きのもの、その人物が纏ったとされる衣装(ユニフォームや水着)の断片、野球選手のバットを薄片にしたもの、映画のフィルムの一部などを封入したカードも存在し、主に「メモラビリアカード」などと呼ばれる。

こういった計画的に流通数を絞ったものの他に、印刷過程のなんらかのミスにより封入が限られたもの、あるいはスポーツ選手をあしらったものの場合は選手の引退やチーム移籍などが突発的に起こり、その選手をあしらったカードの発行が打ち切られる場合なども存在し、「ショートプリント(SP)カード」と呼ばれる。

こういった特別なカードは特に収集価値が高いものとされているが、特に人物を描いたカードはその人物の収集家の間での人気などに収集価値が左右されがちである。

なお、先に挙げたビックリマンシールはその名前の通りシールの様態を取っており、形状はカードではないが、日本におけるトレーディングカードの先がけ的存在として考えられている。

トレーディングカードゲーム [編集]
トレーディングカードはそれ自体の観賞性などから、収集されることが目的となる場合が多かったが、古典的なカードゲームの発展形として創作されてきたカードゲームからのアプローチとして、トレーディングカードの仕組みと流通形態を巧みに利用した卓上ゲームが考案された。詳細はトレーディングカードゲームを参照。

販売方法 [編集]
日本におけるトレーディングカードの販売方法は、次のように大別できる。

カード単体で販売される場合
カードはビニールやアルミパックなどが施され、内容が判別できないように小分けされて玩具店、コンビニエンスストア、専門店などで販売される。またトレーディングカードゲームの多くはこれに分類できる。
自動カード販売機によって販売される場合
カードは料金を支払うと取り出すことのできる簡易器具「カードダス」などにセットされて、店頭・街頭などで販売される。また、アーケードゲームとトレーディングカードを融合させ、ゲームをプレイするとトレーディングカードが排出され、次回のゲームに利用できるデータがカードにバーコードなどで記載されているものもある。
食品に添付される場合
プロ野球チップスなどがこれにあたる。食品としてコンビニエンスストアやスーパーマーケットに陳列されるが、一時はカードの人気が白熱し食品を粗末にしたり、カード部分の盗難が相次ぎメーカーがパッケージに工夫を加えるなどの問題も生じた。食品におまけを付ける商法は食玩と呼ばれるが、トレーディングカードは食玩に分類されないこともある。
専門仲介店舗
カードの希少性が高まると、それらのカードを売買する専門の店舗が成立する。トレーディングカード専門店では、カードの買い取り・販売を行うほか、トレーディングカードゲームの対戦場(デュエルスペース)を設けている。最近では、ネット上で売買をおこなうサイトも多く見られる。また、カード単品(シングルカード)だけでなく複数のカードを組み合わせた構築済みデッキと呼ばれる形態での販売も盛んである。

2009年03月10日

マルペロ島(Isla de Malpelo)

マルペロ島(Isla de Malpelo)は、コロンビアが太平洋上に領有する島。その周辺海域は何種類ものサメが多く棲息する巨大な禁猟区で、「マルペロ動植物保護区」として、ユネスコの世界遺産にも登録されている。

マルペロ島はコロンビアのブエナベントゥラ海岸の490 km 西に位置している。火山活動で出来た島で、岸壁は深さ4000 mにまで沈み込んでいる。この島はドルサレ・デ・マルペロ(Dorsale de Malpelo)と呼ばれる北東から南西に伸びる長さ296 km、幅93 km の海底火山帯の山稜に当たっている。マルペロ島の面積は3.5 km? で、最高地点は海抜320 m のモナ山(Mona)である。

島は11の岩に囲まれている。北端にある4つはロス・モスケテロス(Los Mosqueteros)と呼ばれ、西端にある2つはそれぞれバガマレス(Vagamares)とラ・トルタ(La Torta)、南端にある5つは「ロス・トレス・レイェス」(Los Tres Reyes, 三人の王)、「ラ・グリンガ」(La Gringa)、「エスクーバ」(Escuba)と呼ばれる。

マルペロ島は太平洋の島々の中でも毎年最も頻繁に全世界から科学者たちが訪れる島のひとつである。同時に世界的にも知られたダイビングスポットのため、世界中からダイバーたちもよく訪れる。島はコロンビア海軍の人員によって恒久的に保護されることになっており、監視員たちが違法で分別のない密漁、特にサメ漁に目を光らせている。
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マルペロが形成されたのは、大体2000万年前から1700万年前のことである。この時期にはマルペロは10倍大きかった。地形学者たちは、現在の面積になった原因を、海洋の浸食作用や降水、強風などにさらされてきたことに求めている。

マルペロは二つの回帰線の間にあり、北半球と南半球の貿易風が集中する場所にある。この地域は、多彩な風と大雨によって特徴付けられる。この島には、淡水の湧き出る場所はないが、島の高所が雨を集める場所として機能するため、ここから岩間を伝って淡水が流れ落ちる。

マルペロ周辺の海洋環境は、周辺を流れる8つの海流や海洋現象に強く影響されている。その8つとは、北赤道海流、赤道反流、南赤道海流、赤道潜流(クロムウェル海流)、ペルー海流、パナマ海流、コロンビア海流、エルニーニョ / ラ・ニーニャである。

これらの海流は大体が暖流で、水温は26度から27度、塩分が濃く、表面は33ppm、深部は34ppmである。

1828年8月31日に、この島はペルー海軍とコロンビア海軍が争ったマルペロの戦い(Combat de Malpelo)の舞台となった。

1995年にはコロンビア政府は、マルペロを「マルペロ動植物保護区」(Santuario de Fauna y Flora Malpelo)の名で、自然保護区とすることを決めた。2002年には国際海事機関によって「特に繊細な海域」に指定され、同じ年に絶対的な保護カテゴリーに登録された。保護区の面積が651km?から757km? に拡大されたことで、世界第9位の規模を持つ海洋保護区となった。そして、2006年7月12日にユネスコの世界自然遺産に登録された。

フランスとコロンビアで活動する生物学者のサンドラ・ベスドは、太平洋のサメの保護を目的とした国際連合の国際的プログラムを主導しており、マルペロの保護でも重要な役割を果たした。彼女は非政府組織の「マルペロと他の海洋生態系の基金」(Fondation Malpelo et autres Ecosystèmes Marins)を設立し、コロンビアの生物多様性の保護に尽力している。彼女たちの活動は、特にマルペロ周辺の保護に注力されている。

名前の由来
マルペロの名の由来は詳らかにはなっていないが、この島が初めて地図に記されたのは、1550年の世界全図であったことは分かっており、そのときの名前は「イェ・マラブリ」(Ye mallabry)だった。同じ頃のいくつかの地図では、この島や湾を表す言葉として、かつて「庇護されていないもの」を意味していたらしい「マラブリゴ」(malábrigo)が用いられていた。

異説としてはラテン語の「マルウェオルス」(malveolus)に由来する可能性もある。これは「人を近づけないもの」の意味で、アクセスが困難だったこの島を表す語として「マルペロ」へと転訛していったのかもしれない。

2009年02月22日

アーヴ語

アーヴ語(あーぶご、アーヴ語: Baronh)は、森岡浩之のSF小説『星界の紋章』シリーズに登場する架空の言語。架空の文字アースによって表記される。

アーヴ語は設定上、宇宙空間を生活圏とするアーヴ種族が母語とする言語であると共に、アーヴによる人類帝国(フリューバル・グレール・ゴル・バーリFrybarec Gloer Gor Bari)、通称アーヴ帝国(バール・フリューバルBar Frybarec)の公用語ということになっている。
ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

ヤマト語族トヨアシハラ語派に属する。純化を経ていない日本語の未来の姿はヤマト語族ニッポン語派(クロムシュタット・ヤマト語及びマツオ語)と設定され、近縁語であるとされている。

アーヴ語には11の短母音があり、それぞれの母音を表すための11のアーヴ文字が存在する。アーヴ語の長母音はアクセントによって現れるものであり、弁別機能はない。

半母音と重母音
半母音は以下の3つである。

- 硬口蓋接近音 [j]
- 両唇軟口蓋接近音 [w]
- 両唇硬口蓋接近音 [?]
このうち、はと母音が連続する時の音である。また、/ajθ/(邦国)、/roj?/(似我蜂)といった一部の語中にあるは[j]の発音となる。

アーヴ語において重母音を認めるべきかの指針は示されていないが、もし認めるとすると、上昇二重母音には/ja, j?, je, jo, ju, wa, we, wi, ?a, ?e/、下降二重母音には/aj, ej, aj, uj, aw, ew/が確認される。ÿ系の下降二重母音(母音+の組み合わせ)は確認されない。三重母音は/swaj/(館)に/waj/が見られる。重母音が音声としてどのように発音されるかを知るすべは無いが、例えば/abljar/が仮名表記で「アブリャル」ではなく「アブリアル」と書かれることを見ると、[abljar]よりは[abli?ar]に近い発音ではないかと考えることもできる。

子音
子音も表の通りである。馴染みの薄いであろう子音を説明する。

/?/は現代日本語「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」の子音である。
/?/は現代日本語「ニャ、二、ニュ、ニョ」の子音である。
/?/はフランス語のj[?]
/?/はフランス語のr[?]
/h/は発音と表記が少々複雑である。

語頭、/h/もしくは母音の後では[h]となる。
/s, z, l/の後ろでは音価を持たない。表記上もhを書かず代わりに先行する/s, z, l/の子音を重ね書きする。例外的に、外国由来の姓を元の発音のままアーヴ語化する際(例:リン()、サムソン())、または元となった日本語の末尾が「ん」で終るもの(例: (父)←とうさん、 (母)←かあさん)の場合は、本来は下記のように発音が変化するを重ね書きする例が見られる。
/p, b, m, t, d, n, r, c, g/の後ではそれらの子音と同化して[?, v, ?, θ, ð, ?, ?, ?, ?]となる(表記はそのまま)。
流音が/l, r, ?/と三つあることに注意。

なお、基本として子音は全て発音するが、/al?a/(頭環)の、[abljar](アブリアル)ののように黙字となる場合もある(ただし、「アブリアル」ののように、主格語尾を除いて最後に来た子音は活用の際には発音するので注意― [nuj abljars?r](アブリアルの耳))。

言語類型論的には屈折語と膠着語のハイブリッドということができる。現代日本語から変化する過程で名詞と格助詞の一部が融合して格変化が、法(ムード)と相(アスペクト)を表す助動詞・助詞が融合して動詞語尾が生じたことによって屈折性が高まったとはいえ、一方で生産性の高い接辞も豊富であり、日本語が持っている膠着語的な性質を十分に維持しているためである。語順は日本語本来のSOVに加えてSVOの語順も可能であり、語順の自由度は高いといえる。修飾語はいくつかの例外(例えば名詞第1型の生格)を除いて基本的に被修飾語の後ろに置かれる。名詞は7つの格を持ち、格変化によって示すことのできない格情報やその他の文法範疇を後置詞によって示す。動詞の相(アスペクト)と法(ムード)は動詞語尾によって示され、態(ヴォイス)、否定などは動詞接尾辞によって示される。日本語において活用語であった形容詞は活用を失い、コピュラ動詞(ane)によって時制などを表すようになった。日本語では未発達だった有情物の代名詞(英語のI, You, Heなどに相当するもの)が発達しているが、印欧語やセム語のように三人称の男女の区別は無い。文法範疇としての敬語も消滅し、ポライトネスは統語的な表現(言い回し)によって表現される。名詞の文法情報を格変化と後置詞の2つによって表す点、形容詞が変化しない点などはアルタイ諸語の文法に類似している。

語彙
アーヴ語の語彙は現代標準日本語起源の単語が大部分であるが、日本語の古語に起源を持つ語も相当数見られる。

(多い) (新しい) 俗語に起源を持つものも稀にある。

(ですよね) (連絡艇) 非日本語の起源をもつ語も数例見られる。

(交通艇) 以下は翻訳借用語の例である。

(経済)=-( (星系)=-( 「経済」は日本人による造語であるため、「その発想自体は日本人によるものだ」ということで翻訳借用がゆるされたのであろうか。「星系」に関しては翻訳借用語であるとは断定しがたいがその可能性は高いと見られる。

方言
話者はアーヴのほか、帝国に支配されるアーヴ以外の民族であるアーヴ帝国国民(レーフ,)を含む。国民は大抵の場合アーヴ語を母語としないため、それぞれの母語に由来する訛りをもつことが多い。このうち特に知られるのが、ノバ・ラテン語を母語とする旧セクティア連邦所属星系出身者の使うセクティア方言である。この方言は標準アーヴ語より母音が少ないため習得が比較的簡単であり、他の星系出身者もセクティア方言を話すことが多い。そのためセクティア方言を「国民語」とも呼ぶ。

複数の邦国からの移民によって成立した地上世界ではアーヴ語が共通語に指定されていることがある(スファグノーフ侯国もその一つ)が、文法が簡略化され多くの外来語を取り入れているため、そのようなアーヴ語変異体どうしでは意思の疎通が困難であることが多い。

例えば、星界の紋章の登場人物である「葬儀屋」はアーヴ語でとされている。正規アーヴ語では名詞は必ず-c,-h,-nの語尾をもつので、これは正規アーヴ語ではなくクラスビュール・アーヴ語であり、正規アーヴ語で(-弔う + -<名詞化>)というべき単語が訛化したものと推測される。アーヴ語の第4型変化名詞は語幹内で--/--の交替を行うが、クラスビュール・アーヴ語では形態素が--に統一されたために主格に--が現れるのだろう。正規アーヴ語では表記上のみ現れる主格語尾もクラスビュール・アーヴ語では表記されていない(格変化そのものがない可能性もある)。

アーヴ語史
アーヴ語は(作品の出版された20世紀末から21世紀初頭の世界から見た)近未来、宇宙開発の開始した時代に、日本(と思しき国)の言語復古主義者により、その日本語から借用語(外来語)要素を排除し、上代日本語(奈良時代以前の大和言葉)から語彙を補充してつくられた人工言語トヨアシハラ語が直接の祖語である。彼らは新しい外来要素であるヨーロッパ諸語の影響はほぼ完全に排除することに成功したようだが、古い外来要素である漢語の影響は完全に排除することはできなかった。漢語概念の多くは、漢語を大和言葉に直訳する形で取り入れられている。

軌道都市トヨアシハラから、惑星探査のために送り込まれた原アーヴたちが用いていたトヨアシハラ語は、彼らが文字を与えられず、小人数で閉塞的な生活を営んでいたこともあり、彼らがトヨアシハラを破壊した後、急激な短縮化現象によって大きく変容した。

その段階は、母音の脱落、統合
同音異義語の発生を避けるため、残った母音が脱落したものに引きずられたことによる母音の増加
子音の発音部位の遷移、鼻音の非鼻音化などの変化
語幹の末尾音と格助詞の融合及びそれに伴う一部子音の発音変化
であった。

従って語彙は現代日本語における大和言葉と上代日本語の語彙を基礎として形成されているが、音韻的には現代日本語から大きく変化しており、日本語の大きな特徴である開音節構造(/N/を除くほとんどの音節が母音で終わる)も変容している。この点で文法的には屈折語の性格が強くなり、ほぼ純粋な膠着語とされる日本語とはかなり異なる。

しかし最近は膠着語?屈折語?孤立語循環説なども提唱されており(現代英語が屈折語からほとんど孤立語に近づきつつあるのもこの一例と理解される)、日本語からアーヴ語への文法構造の変化は決して荒唐無稽であるとはいえない。

日本語からのアーヴ語の変化例
ガサルス(←八咫烏)
jatagarasu →(母音変化)→ jatgarse →(子音変化)→ gatharse →(主格語尾-cの追加)→ gatharsec(主格語尾ecは発音しない)
ラクファカール(←高天原)
tacamagahara →(母音変化)→ tacmgahar →(子音変化)→ lacmhacar →(主格語尾-hの追加)→ Lacmhacarh(mhは[f]と発音する)
サリューシュ(アーヴ根源二九氏族の一つ←参)
karasuci →(母音変化)→ karsc →(子音変化)→ sarrc →(主格語尾-hの追加)→ sarrych(chは[sh]と発音する)
スポール(同上←昴)
subaru →(母音変化)→ sbaur →(子音変化) spaur →(主格語尾-hの追加)→ spaurh

問題
作者による体系的な辞書が作成されておらず、作者による解説は『星界の紋章 読本』の巻末にある会話と文法の解説のみであることから、ファンたちが前記資料やアニメなどから独自に辞書を作成している(外部リンク参照)のが現状である。

また、原作及びアニメにおいて一部の誤記がファンから指摘されている。

2009年02月06日

サミットのロゴは公募により選定

日本の福田康夫、ロシアのドミトリー・メドヴェージェフ、イギリスのゴードン・ブラウンにとっては、この会議がサミットへの首脳としての初参加となった。
ワンス ボデオ モンクレ シガト ドレア パーコレ スタート メジャー ピーエイ ソフトダ ロッド たむぽえ フレム パンジー 羅生門 ブリスベ 便利に イチゴ ストッ ニット えいか ハンド ジース カーネリ ドラー あいら パンゲア オブラ ジンサ スカジー ドルペッグ うたまくら えいこう モルディブ たいゆう ニオブ 美女と野獣 ドーマ トップ トパイ ダウンベ ナビルポ ナトリ ろぎょ オーニソム 雪舞い マルチ タイトルラ トリ キャメ

また、アメリカのジョージ・W・ブッシュにとっては、この会議がサミットへの首脳としての最後の参加となる予定である。なお、ブッシュは洞爺湖町を訪れた7月6日が誕生日だったため、福田からバースデーケーキが贈られた。

フランスのニコラ・サルコジ、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニにとっては、この会議が初訪日となった。

アフリカ連合委員長のジャン・ピンは、7月7日の主要8ヶ国・アフリカ首脳拡大会合にて腹痛を起こし、札幌市の病院に搬送された。

ロゴ
2008年7月7日、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ(左)とタンザニア大統領ジャカヤ・キクウェテ(右)。後方の図案は第34回主要国首脳会議のロゴサミットのロゴは公募により選定され、日本グラフィックデザイナー協会会長福田繁雄らの選考により三重県立特別支援学校北勢きらら学園の生徒作品が採用された。

ロゴは外務省で管理しており、申請し承認されれば民間でも使用が可能となる[11]。

一例として、イー・モバイルでは、通信デバイスにロゴをあしらったサミット専用モデルを開発し、サミット会場限定で貸し出しを行っている[12]。

環境の重視
環境問題が主要議題になるとされたことから、公式ウェブサイトは色調と容量を考慮することでディスプレイ消費電力の軽減を図っており、「環境配慮型サイト」を謳っている[13]。

科学技術相会合では、各国代表の送迎に燃料電池を搭載したハイブリッドバスが使用された[14]。

閣僚会合
主要8ヶ国科学技術相会議が開催されるのは、今回が始めてである。

影響
警備体制
北海道は元より、東京・大阪などでも厳重な警備態勢が敷かれた。 また、間接的ながら、サミット警戒警備に初めて自衛隊が動員された。陸上自衛隊中央即応集団の空挺部隊が北海道内にて待機態勢をとった他、海上自衛隊はイージス艦を日本海に展開、航空自衛隊はAWACS・戦闘機による空中警戒、八雲分屯基地にPAC3配備した対弾道ミサイル警戒を実施した。また、これにあわせ、石破茂防衛大臣を責任者とした航空機テロに対する図上演習も実施され、ハイジャック機が自爆突撃態勢に入った場合、治安出動を発令し最終的には突撃前に戦闘機が撃墜する、という暫定的決定がなされた。

北海道の負担

首脳会議が開催されたザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパ2005年における北海道の試算では警備費だけで約30億円、全体では約70?80億円となっており、夕張市の財政破綻問題を抱え、巨額の積算赤字に苦しんでいる財政難の中でさらに重い負担が北海道にかかる見通しとなっている。北海道知事の高橋はるみも財政上の問題からサミット誘致には消極的だったが、警察庁長官漆間巌が立候補を促し、衆議院議員中川昭一が高橋を説得したことから、最終的に立候補を表明した[15]。

高橋は「最小限のコストで最高の効果を」と主張し、北海道の2008年度予算ではサミット関連事業費として20億円弱を計上した。なお、日本で直近に開催された第26回主要国首脳会議の際には、沖縄県が110億円近くを支出しており、北海道ではおよそ5分の1程度に抑えている[15]。また、北海道の受け入れ準備組織も、負担金2億3000万円のうち2億円程度を民間の寄附金でまかなっている[15]。なお、北海道経済連合会の試算では、第34回主要国首脳会議による地域経済への波及効果は379億円と見積もっている。

候補地選定

首脳会議の会場に程近い洞爺湖北海道の立候補は2007年3月までずれ込み、他の立候補地のような誘致活動はほとんど行えなかった[16]。また、北海道の立候補表明を待たずに、政府調査団が現地視察を実施していた。

それに対し、北海道以外の立候補地は2年前から誘致活動を続けていたため、北海道の立候補表明に冷ややかな反応を示した。同年3月19日、大阪府知事の太田房江は、北海道の立候補過程について「まさに後出しじゃんけん」[17]と厳しく指摘した。さらに、北海道の立候補を受理した安倍政権に対し「地域みずからが手を挙げて、2年近くにわたって頑張っている地域を、どうお考えになって立候補を受け付けられたのか、安倍政権は頑張る地域を応援するという政権であるにもかかわらず、こういう形になったというのは、若干不透明」[17]と批判した。

ところが、北海道の立候補からわずか1ヶ月後の2007年4月23日、サミット会場は北海道の虻田郡洞爺湖町に正式決定された[18]。この経緯に対し、自らの意思で誘致を表明した他の立候補地から、強い反発が起きた。

そのため、2007年4月23日のぶら下がり会見にて、安倍はサミットの閣僚会合開催地の選定方法について説明し「サミットの候補地として立候補した地域を念頭に置いて決定したい」[19]と表明した。しかし、「瀬戸内サミット」を提唱しサミットを誘致してきた岡山県・香川県連合は、閣僚会合の開催地としても選定から漏れることになった[20]。

首脳会議誘致を表明していた都市
開港サミット
横浜市・新潟市の共同提案
関西サミット
京都府・大阪府・兵庫県の共同提案
瀬戸内サミット
岡山県・香川県の共同提案

領土問題
サミットの公式ウェブサイトにて閣僚会合の開催地を示す日本地図に北方領土が含まれていたため[21]、ロシアの報道機関は激しく反発した。新聞『イズベスチヤ』は「日本人はメドベージェフ大統領にとって不快なサプライズを用意している」[22]「(大統領は)わが領土である南クリル(北方四島)が日本の領土として描かれた地図を目にすることになる」[22]と強く批判した。なお、ロシア当局も首脳会談への影響を懸念し修正を申し入れたが、日本は「北方四島は日本の領土というのが我々の立場」[22]と述べたうえで、修正を拒否している。

映画
サミット開催にちなみ、『宇宙大怪獣ギララ』の続編として『ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発』(監督:河崎実)が製作された。

出席首脳

第34回主要国首脳会議の出席者 福田康夫(議長・日本国内閣総理大臣)
アンゲラ・メルケル(ドイツ連邦首相)
ジョージ・W・ブッシュ(アメリカ合衆国大統領)
ニコラ・サルコジ(フランス共和国大統領)
ゴードン・ブラウン(イギリス首相)
スティーヴン・ハーパー(カナダ首相)
シルヴィオ・ベルルスコーニ(イタリア首相)
ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ(欧州委員会委員長)
ドミトリー・メドヴェージェフ(ロシア連邦大統領)

拡大会合(1日目)

拡大会合(3日目)
主要経済国会合(MEM)

福田康夫(議長・日本国内閣総理大臣)
アンゲラ・メルケル(ドイツ連邦首相)
ジョージ・W・ブッシュ(アメリカ合衆国大統領)
ニコラ・サルコジ(フランス共和国大統領)
ゴードン・ブラウン(イギリス首相)
スティーヴン・ハーパー(カナダ首相)
シルヴィオ・ベルルスコーニ(イタリア首相)
ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ(欧州委員会委員長)
ドミトリー・メドヴェージェフ(ロシア連邦大統領)
胡錦濤(中国国家主席)
ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ(ブラジル大統領)
マンモハン・シン(インド首相)
フェリペ・カルデロン(メキシコ大統領)
李明博(韓国大統領)
スシロ・バンバン・ユドヨノ(インドネシア大統領)
ケビン・ラッド(オーストラリア首相)
タボ・ムベキ(南アフリカ大統領)
潘基文(国際連合事務総長)

2009年01月22日

国際人権法

「国際人権法」(International Human Rights Law; Droit international des droits de l'Homme)とは、国際法によって個人の人権を保障する、国際法の一分野をいい、第二次大戦後に急速に発展してきた分野である。第二次大戦前は、人権は国内問題として、国内問題不干渉義務(国際連盟規約15条8項)の下、各国の専属的事項とされていた。しかし、第二次大戦の反省から、国連憲章において人権保護が規定され、戦後急速に国際平面における人権保護が発展しだした。その端緒は、1948年の国連総会において採択された「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)である。同宣言は、慣習国際法に成熟したとする、各国の国内裁判所の判例がある。

国際人権法は、二つに分類することができる。普遍的保障と地域的保障である。

第一に、普遍的保障であるが、これは、国連システムと条約制度に分けられ、いずれも強制力をもった履行手続きを備えていない。

国連システムでは、経済社会理事会が創設した「国連人権委員会」の制度があった。2006年に、同委員会は「国連人権理事会」(Human Rights Council)に発展した(国連総会決議60/251; A/RES/60/251, 3 April 2006)。しかし、基本的な性格や目的は、維持されているといえる。すなわち、国連人権理事会は、テーマ別人権問題について対話の場を提供したり(同決議、5項(a))、各国による人権に関する義務の履行の普遍的な定期的審査を行ったり(同項(e))、法的拘束力のない「勧告」(recommendations)を行ったり(同項(i))するにとどまる。

条約制度として、世界人権宣言を条約化したといわれる「経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約」(「社会権規約」)と「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(「自由権規約」; ICCPR)があるが、特に発達している「自由権規約」の制度においても、「自由権規約第一選択議定書」の下の個人通報制度では、「自由権規約人権委員会」(ICCPR Human Rights Committee)は、法的拘束力のない「見解」(views)を述べる権限を有するにとどまる。他にも、国連の下でいくつかの人権条約が作成され、実施されているが、同様に、拘束力のある決定を下す機関はない。

第二に、地域的保障は、欧州人権条約、米州人権条約、アフリカ人権憲章(正式名称、「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」)が非常に発達していている。各制度は、独自の人権裁判所を有しており、法的拘束力のある判決を下して、その実効性を担保している点で、先の普遍的保障の制度と大きく異なる。なお、アジアにおいて、地域的人権条約を創設しようとする努力もなされたことがあるが、いまだ実現していない。

欧州人権条約は、「欧州審議会」(le Conseil de l'Europe; Council of Europe)の下、第二次世界大戦のような大規模な戦争を再び起こすことを防止する目的で1950年につくられた。加盟国は、広く、EU諸国から、ロシア、トルコまで含む。国家に加えて、個人や非政府団体も、ここに締約国の条約違反を直接訴えることができる(34条)「欧州人権裁判所」を有し、現在、大変活発に活動している。同裁判所の判決は、加盟国を直接、法的に拘束する。

米州人権条約は、1969年に欧州人権条約にほぼ倣ってつくられた制度であり、同様に「米州人権裁判所」を有する。同裁判所も活発に活動しており、国際法の観点からは、例えば、1998年に国際司法裁判所で争われた「ウィーン領事関係条約事件」(パラグアイ対米国)に関連して、独自に勧告的意見を出したことなどが、注目されている。
バニラ ラバー 野かんぞう シバナ ナムル 青じそ ネムノ マンナン シュミー 春の小川 スキル マルシー フライ イノベー フェロール ウシカ おすすめ ライフ シュー スタイ ラードダ カタクリ 桜桃 ステッカ バイオ ドリフト テキス サイト刈穂 ルクラス シャンパン ピン幸運 ドラキュラ ヨード パレス トレー しりもち くさなぎ アックス すたー るはーぶ ワイルド ぴおーね 天使のア シスタ リライト ランス ナルキ サイバ グロブリン ポイント

1981年に成立したアフリカ人権憲章は、人権の保護を目指すと同時に、人民の平等(19条)や発展の権利(22条)も目的としている。同条約が設置していた「アフリカ人権委員会」は、その後、2006年に「アフリカ人権裁判所」(正式名称、「人及び人民の権利のアフリカ裁判所」; la Cour africaine des droits de l'homme et des peuples)に代わり、他の地域的制度と同様に司法機関を持つようになった。しかし、条約の実効性については、未だ発展段階にあるといえる。2008年7月1日に、「アフリカ司法人権裁判所規程に関する議定書」(Protocol on the Statute of the African Court of Justice and Human Rights)が成立し、「アフリカ人権裁判所」と「アフリカ連合司法裁判所」の二つの裁判所が統一された。この新しい裁判所は、条約、慣習法、アフリカ諸国に共通の一般原則を適用するとされ、勧告的意見も発することができるものである。

2009年01月15日

アルマ・マーラー

バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

アルマ・マリア・マーラー(Alma Maria Mahler, 1879年8月31日 ? 1964年12月11日)はオーストリアの作曲家グスタフ・マーラーの夫人。自身も作曲を行い、16の歌曲が今日に残されている。華麗な男性遍歴で知られる。

実父・養父(母親の再婚相手)ともに画家という家庭に生まれ、母親は芸術家サロンの主宰者であった。

少女時代から美貌と多才ぶりで多くの男性芸術家をとりこにした。世紀の変わり目に、当時新進気鋭の作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーに作曲を入門、歌曲の作曲を開始する。ツェムリンスキーは、マーラーと出会う前のアルマの恋人のひとりとして知られており(アルマ本人が自伝で事実と認めている)、ツェムリンスキーより前には、グスタフ・クリムトとも深い仲にあった。

1900年に、ツェムリンスキーと恋愛関係にありながらもグスタフ・マーラーと知り合い、子供を身ごもり結婚するが、その際に「これからは僕の作品を君の作品と見てほしい」と言い渡され、作曲活動の事実上の禁止を言い渡される。当初はウィーン楽壇の将来を担うベテラン芸術家との結婚に酔いしれたアルマだったが、出世主義者で職場では暴君、家庭を顧みず、しかも年齢差も大きかったマーラーとは、次第に心理的な溝ができる。その心の隙間に入り込んできたのが、建築家のグロピウスであり、晩年のマーラーがアルマとの関係修復を望んでフロイトの診察を受けたというエピソードは有名。さらにマーラーは、アルマの関心を取り戻そうとして、彼女がかつてツェムリンスキーのもとで作曲した歌曲を、自らの契約先であるウニヴェルザール出版社に持ち込んだ。

マーラーが自作の交響曲第10番を、まだ心身ともに完成できる状態にありながらも未完成で遺した点については、アルマが看病のために戻ってきたことでマーラーが安らぎを取り戻し、それによって創作意欲が解消されたとも言われる(のちにアルマは、≪交響曲 第10番≫全曲実用版の作成に際しても、たびたび姿を見せることになる)。

1911年に未亡人となった後、画家のココシュカらとも関係を深めながらも(ココシュカの油彩画「風の花嫁」は、アルマとの性交渉を赤裸々に描いた作品として有名)、グロピウスと再婚。グロピウスとの間にもうけた娘マノンは聡明で美少女だったが、虚弱で夭逝した。マノンのことをことのほかかわいがったのが作曲家のアルバン・ベルクであり、ベルクはマノンの死後に、ヴァイオリン協奏曲<ある天使の追想に>を作曲した。ここで「天使」と呼ばれているのがマノンにほかならない。ベルクはまだ生家が裕福だった思春期に、使用人の女性に娘を身ごもらせた過去があり、その女性や娘と引き離された上、結婚相手の女性とは幸せな家庭をつくることができなかった(アルマは、晩年のベルクの不倫の恋をとりもち、後々までベルク未亡人の恨みを買っている)。そのことからベルクは、マノンをわが子と重ね合わせていたとされる。

グロピウスとの関係が破綻してからは、年少のヴェルフェルと再々婚した。ヴェルフェルはイタリア・オペラ、とりわけヴェルディにしか興味がなく、同時代の音楽をたいていは罵倒しており、音楽的にアルマと共通する点がほとんどなかった。

アメリカ亡命後、とくにカリフォルニア時代のアルマ・マーラーは、自ら音楽サロンを主宰して、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、コルンゴルトなど、ヨーロッパからの多くの亡命作曲家が出入りを重ねた。コルンゴルトがストラヴィンスキーの前で、シェーンベルクのピアノ曲を暗譜で通して演奏してみせ、驚かせたというエピソードは、アルマのサロンにおいての出来事である。

ちなみに、マーラーとの間にもうけた2人の娘のうち、長女マリア・アンナは幼くしてこの世を去ったが、次女のアンナ・ユスティーネは後に彫刻家として活躍した。彼女も母と同じく多彩な恋愛遍歴で知られ、生涯に5回結婚している。2人目の夫は、アルマの指示でマーラー「交響曲第10番」の補筆を行った作曲家エルンスト・クルシェネクである。第二次世界大戦中は、母親がアメリカ亡命を選んだのに対して、イギリス亡命を選んだ。

アルマ・マーラーと音楽界のかかわり

アルマ・マーラーの「証言」
アルマ・マーラーはたびたび自伝の中で、亡夫マーラーを始めとして、同時代のさまざまな作曲家・演奏家にかんする「証言」を遺している。しかし、マーラーが「ブルックナーの熱心な使徒であった」など、近親者についてさえ思い違いや思い込みも少なくなく、関係の薄かった者についてとなると、なかには面白半分・悪意半分の(あきらかに事実無根の)アネクドートを伝えている。このため、こんにち心ある音楽学者や音楽評論家は、アルマの発言を引用することに慎重になっている。しかしながら、「私が死んで50年たてば、私の時代がくるだろう。そのときリヒャルト・シュトラウスの時代が終わる」など、現在でも盛んに引用される「アルマ経由のマーラー語録」は少なくない。

また、才能ある男性にほだされやすい性格から、マーラーに接近する機会をうかがっているさまざまな男性音楽家が、利用するためにアルマに言い寄ると、そちらに肩入れして後々まで判断を誤ってしまうという欠点も持ち合わせていた。たとえばハンス・プフィッツナーをアルマは常に擁護しようとし、プフィッツナーからの攻撃によってシェーンベルクの一派に緊張が走った際にも、アルマは断固としてプフィッツナーの味方に回った。このような彼女の姿勢は、マーラーとの結婚生活が危機を迎えていた時期に、プフィッツナーが同情してくれたという想い出から出るものだった。作曲は知的な構成よりも直感と霊感が左右するとの、プフィッツナーの信念に共感を寄せたということは、アルマ自身の作品を考察する上では興味深い論点となる。